■-七十周年への歩み-■5/7ページ
                                      園長 保泉欣嗣
70周年
特別コラム
シリーズ第1回
「ちるどらんど」
2005年10月号より
  木造託児所の一階フロアは土足脱いで上がると、そこは広い廊下状の床になっていて、3,40センチほどの段差上の床面で、遊戯をしたり、歌を歌ったりして園生活を過ごしていました。いたずら盛りの子ども同士の集団生活は、いつの時代も変わりませんが、先生方のしつけは厳しく怒られるのではなく、よく叱られました。
 昭和20年8月、日本は戦争に敗れました。数百万人もの兵士や国民が犠牲となって亡くなりました。食物も生活物資も不足して、貧しさで人々の心はふさぎこんでいました。社会は荒廃していました。
 昭和22年6月、日本で漸く児童福祉という法律が制定され施行しました。時に、若葉保育園として国から認可されました。保育園の所管は厚生省(現 厚生労働省)です。この年がいわゆる団塊の世代の始まりです。即ち、戦後の出生率の最高潮に達した年です。頃を同じくして、忍町にも二・三の保育園が設置されました。認可された保育園には、脱脂粉乳等が配給されました。それは、決して美味しいといえるものではありませんでした。しかしながらそれらは、食物の乏しい時代において子どもの成長には確かなる栄養源としての役割を果したのも事実です。物質といえば当時、ララ(LALA)物質という物が配給されました。ララは、戦勝国のアメリカの宗教、労働、社会事業の団体名で、アジア救済連盟としての機関で食料医薬、衣料品を日本や各国へ供給されたのです。保育園でも、ララ物質の配給のお陰で随分、助けられたと、後々よく耳にしました。それでも、育ち盛りの子どもたちの栄養補給には困窮し、先生方まで手分けして近郊の農家へ食物、野菜の買い出し調達に努めました。当時、農村からも大勢の子どもたちが通園し、職員も通勤していましたので食物の供給に多大な支援をしていただき、食糧事情の乏しい時代も何とか凌ぐことができました。
 昭和25年11月、本園は厚生省管轄の児童福祉省令に基づく「児童福祉施設」として認可されました。まさに日本社会に保育所制度が公的機関として認知された画期的な時期でもありました。
(次号 2月号へつづく)。


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