若葉保育園

◎行田市保育協議会に所属する保育園の設立に至るルーツを探る 

☆文責 3代園長 保泉年子記述による


○若葉保育園
埼玉県保育協議会によって昭和57年3月に発行された「埼玉県保育史」によると若葉保育園は昭和11年1月、忍町(現行田市)に設立。設立者は保泉近蔵さん。以下は元園長で近蔵さんの長女故保泉静子さんが、生前、昭和54年8月に、埼玉県保育協議会保育史編纂委員会にあてて書いた設立当時の事情である。「忍町は昔から足袋生産地として知られ、各家庭はどこも内職が盛んで、夜業も2時3時頃まで続いた。にぶい電灯がミシン台近くにたれさがり、ミシンの音がかまびすしく聞こえていた。当時は軍国主義の時代でもあり、各家庭には5〜6人の子どもがいて、主婦たちは家事とともに子育ての仕事に全く落ち着かぬ有様であった。
ある日、4〜5名の主婦が子どもを背負い、両手にも引いて、疲れ果てた表情で来宅し、子どもを預ってくれる施設の設立を依頼した。父は早速、時の町長高城さんに相談したが、町の財政は思うようではなく、時機を待つことになった。しかし、主婦たちの状況を思い、一日も早い実現を願っていたが、偶然、町の中心部にある土地の売却を知り、所有者との相談も成立し、その土地を求めることができた。その後、今度は知人からの話しがあり、羽生在川俣村に養蚕所の空き家があることを知り、それを見に出かけた。屋根の低い2階建ではあったが、面積は広く、柱も角材のしっかりとしたものであったので、これならば20〜30名の児童の収容はできるものと、持ち主に譲ってくれるよう頼んだ。急遽解体し、求めておいた土地に建設を終えたのが昭和11年の春のことであった。
園舎がどうにか完成すると、知人からの話しがあって、当町(忍町)に在住していた富田わかさんに最初の保母になっていただいた。先生は年輩者であったが、経験もあり、他に若い保母さんも頼むことができた。また幸いなことに小使い(用務員)さんも決まり、早急の実現に大喜びであった。内部設備や備品も富田先生の口添えでほぼ揃って開園の運びとなると、主婦たちよりつぎつぎと子どもを委託された。
約30名の子どもの入園となり、昭和11年1月23日、町長をはじめ、町の有志50名程をお招きし開所武を行なった。子どもたちの将来を思い、若葉のようにすくすくと育つようにと、「若葉」と命名した。昭和12年3月には第1回の卒園式を迎えて、昭和6〜7年生れの18人ほどの児童が卒園した。形ばかりの証書と記念品であったが、父兄の喜びは何よりであったようだ。
昭和12年4月、残った児童と新入園児で50名くらいになった。備品や食器、楽器なども大分購入した。昼食は2、3のお弁当屋さんに交代で頼み、おにぎり、さつまいも、菓子バンなどで補った。昭和12年は日中戦争が勃発した年で、食糧も不足がちになったので、私たちは日曜日を利用して、農村に買い出しに出かけた。昭和15年になると戦争はますます拡大し、主人は出征し、私は老園長にかわって仕事をすることになった。当時、県内初の私立保育園の設立者である豊岡保育園の繁田くら先生、また、熊谷の愛隣保育園の由木とめ先生とは時々会合を開き、施設運営などについて話し合った。
戦後の昭和23年6月埼玉県の認可により児童福祉施設としての保育所となり、定員は150名となった」と語られている。
戦時下の若葉保育園については、若葉保育園元園長、故保泉静子さんの戦時中の思い出でとして「戦時中空襲がさかんになって来た頃は、警報が出るたびに急いで園児を家へ送り返しました。園舎のガラスには×の字に障子紙を貼り、ガラスが破損しても怪我のないように配慮しました。統制品のまんじゅうやお菓子類が、菓子協同組合より、無償あるいは公の価格で、よく配給されました。もちろん、警察の押収したヤミ物資が組合経由で手に入ったわけです。10日に1度くらい、自転車で約2キロの道を受領に出かけました。
遠足は、今のようにバスなどを利用するわけではなく、近くの河原や松林のある所を選んで行きました。終戦直後は物資もなく、保育園の経営も大変でした。園に自転車もなく、ノーパンクの古物の自転車を1000円で買い、子どもたちの送り迎えをしたりしました」と語られている。




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